父さん、また今年も暑い日になりましたね。
去年の終戦記念日に父の事を始めて新聞に投稿したと、このブログに書いた。
終戦後3ヶ月たってからシベリアに抑留され、
4年の酷寒の地ですごした捕虜時代の事は、口を閉ざしたまま
日本に帰還してから61年が過ぎ、今は病床に臥している父。
去年預かってきたアルバムに確か広島の写真があったはず・・・
日付の記載もなく、小さな薄汚れた白黒写真をスキャンしてみた。
終戦後4年経ち故郷に命辛々帰った父を待っていたのは
言われもない差別と、多くの失った仲間への贖罪と、心に圧し掛かる戦争の記憶
その深い闇をかかえて、母と結婚し生きるために始めた商売のために
この広島を訪れたのだと母から聞いているが、それがいつなのか・・・
たしか昭和25年過ぎの事だと・・・
原爆ドームの前で仁王立ちする若き父
去年書いた記事にも、若き父の写真を載せて
<17,6,25日 三ツ峠 山頂ニテ>
< 山頂で佇む父の視線の先には、何が見えたのでしょうか。>
<どんな思いで真っ暗な未来をみつめたのでしょうか。>
< 胸が締め付けられます。>
今日もまた、朝8時15分黙祷しながら
戦争を知らない子供たちばかりになった平成の現代に
語り継いで行く責任を実感し、また若き父に登場してもらったのである。
最後の学徒動員で出兵の記念写真
「 どうだぁ~俺だけ軍服じゃなかったんだぞ~!
最後になるかもしれねえんだもの、お洒落したんさぁ~・・・」
若い頃から頑固で一本気な父に、「お国に逆らってだいじょうぶぅ?」と聞いた事がある。
そんな時父は穏やかに・・・『いいか、良くおぼえておけ。
一生懸命考えて決めたことは誰が何と言おうと、曲げられないんだ!』
自分の気持ちが大事 心に核を持て それが一番の味方になるから
と教えられたような気がして、今もずっと心に刻み込んである。
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コメント
magamik さん、こんにちは。
この時期だけ思い起こす戦争を知らない世代の私たちとは違って
生身の経験を孫たちにも話してほしかったのですけど・・・
娘たちも、戦争の愚かさの切れ端は、少しずつ感じ取ってくれてると思います。
シベリアからの帰還ということで、当時レッドパージ(赤狩り)で職につくことが許されませんでした。
大卒扱いで教職も技師の道も閉ざされてしまい、
やっと帰った祖国にも裏切られて・・・ふさぎ込んだ青春時代
唯一、母だけが駅に迎えに行き~結婚した
だから、俺たちは恋愛結婚なんだ~と、さんざん聞かされました^^
投稿: 甘栗 | 2010年8月 9日 (月) 17時47分
こんにちわ~
私は夫の転勤で広島に10年住んでいました。
被爆された方々が身近におられました。
お父様、シベリアに抑留されたのですか!?
口を閉ざされるほどに大変な目にあわれたのですね~。
愚かな戦争のために。
そのお父さんがどうして差別されるのでしょう。
私にはわかりません。
大切な人生が台無しになってしまわれたことを
思いますとほんとに胸が痛みおます。
お大事にね。
投稿: magamik | 2010年8月 9日 (月) 17時22分
sofia さん、こちらでははじめまして^^
ソフィアさんのお父様も飛行機関係に従事されてたんですね
父は学徒動員から特攻隊の整備士をしていたそうです。
夏休みになると、孫である娘たちに戦争の話をしてほしい、と何度か頼んだことがありますが
その度に、辛くて話せない・・・と静かに首をふるだけでした
65年という月日も、何十万という失った命も、数だけでなく
一日一日・・・一人ひとりの人生がそこにあったことに思いを寄せていたいですよね。
できればオバマさんも来てくだされば、ノーベル平和賞の重みも増したでしょうに~。
これからもDBやツイッターなどで、よろしくお願いいたしますね^^v
投稿: 甘栗 | 2010年8月 8日 (日) 17時27分
はじめてコメントさせていただきます。
甘栗さん、素敵なお父様ですね・・・・。
私の父も 原爆投下時期は 呉の飛行機工場に学徒動員で行っていたそうです。
目が悪かったため 徴兵はま逃れて・・・。
今年の記念式典には アメリカのルース大使以外にも英国やフランス、
そして何より国連の潘事務総長が出席し核廃絶を訴えましたね。
ぜひこの流れを止めずに、核兵器なき世界を実現してほしいです。
投稿: sofia | 2010年8月 8日 (日) 11時56分