64回目の終戦記念日
終戦記念日を前に一昨日初めて新聞に父の事を投稿してみました。
「父の初めての恩給申請に思う事」として、父の地元の信濃毎日新聞にネットから「私の声」蘭に投稿してみたけど、そう簡単に採用される訳もないので、全文をブログに載せることにします。
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『 中野市に住む86歳の父は、学徒動員で出兵し、終戦3ヶ月後に旧ソ連の抑留政策で捕虜となり、シベリアから帰還できたのはその後4年も経ってからでした。戦地やシベリアで命を落とした多くの仲間に申しわけない、と口を閉ざしていた父も、年老いて体も不自由になり今はほとんど寝たきりです。せめて僅かばかりの年金の足しになればと、家族の勧めもあり戦後64年経って初めて恩給の申請をしてみました。
厚労省からの返答は、11年10ヶ月15日兵役に就いていた事は認められたものの、12年以上という規定に45日たりなく、1回払いの25250円を支給するというものでした。しかし昭和24年8月7日復員となっていますが、父はレッドパージに遭い故郷に帰ることを許されず、その後やっと故郷に帰ってこられたのは2ヶ月近く経ってからでした。この舞鶴港から開放された日を復員と認め、この期間を加算してはもらえないのでしょうか。
造船技師になる夢も奪われ、復員後郷里で教師になろうとしてもレッドパージで拒まれ、その後も辛く苦しい歴史を背負い、清貧に耐えまじめに生きてきた父の復員後60年を、たった45日足りないだけで済まされてしまうには、あまりに切なく悲しい。寿命が近づいている父は、力なく「ありがと、ありがと。」と繰り返すだけでした。
父と同じ思いをしている85歳以上の帰還生存者は、いったいどのくらい居られるのでしょうか。戦争体験を話せる人も少なくなり、話を聴こうとする人も少なくなり、年々、広島も長崎も終戦も、薄れて来ている気がします。64回目の終戦記念日をむかえる今、歴史を風化させることなく、少しでも体験者の痛みに寄り添いたいと思うのは、私だけではないと信じたいと思います。』
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以上、800字の規定に久しぶりに頭を使いましたー
でも、ブログを書いてて良かったと思えるのは、文字に慣れて来たのでパソコンに向っていても毎日新鮮な気持ちでいられるかなぁー・・・なんて、ね!って、いつものように投稿して一先ず気が済んでしまった甘栗でした。
若き日の父の写真のウラには「17,6,25日 三ッ峠 山頂ニテ」と書いてありました。山頂でたたずむ父の視線の先には、何が見えたのでしょうか。どんな思いで真っ暗な未来を見つめていたのでしょうか。胸が締め付けられます。
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